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美とは何ぞや?

「秘すれば花」は美の様相の一つと捉え、ここで改めて「美とはなんぞや」、そして「その基準は」ということを考えてみたい。

美とは一体何であろう?
美学者たちに言わせると、美そのものは定義できないという。
ただ、美のもたらすものは、日本語なら「心地よさ」、英語では「プリージング」という言葉がぴったり当てはまるのだと言う。つまり、その美の属性によって定義するしかないようである。
さすがに詩人は上手いことを言う。イギリスの詩人ジョン・キーツは、長編の詩「エンディミオン」で「A thing of beauty is a joy for ever. (美しきものは永久の歓び)」と歌い上げている。美に関する全ての議論はある意味でここに集約されてしまうのではないかと僕は思う。美そのものを論じる事は出来ないが、美の与えるもの、つまりその属性は「歓び」だと言っている。
先に「容貌のメッセージ性」で論じたように、容貌は他人に対してメッセージを発する。メッセージを受けた人は、視覚領域でまず受け止め、報酬系に落とし込まれ、ドーパミンやエンドルフィンを産生し、快・不快の感情を抱く。このようなやり取りを大脳皮質が抽象的に処理し、美という言葉に言語化する。これが最近の認知大脳心理学の立場のようだ。
よく考えると容貌といっても、生来的なもの、つまり顔の造作の他に、装い、立ち居振る舞いなども加わるが、造作だけは持って生まれたもので、本人の意思ではどうにもならない。
それにもかかわらず、造作は本人の意思とは無関係にあるメッセージを発してしまう。そのメッセージが本人の心が発したいメッセージと同じならいいが、まったく意に反していると、つまり乖離していると、コンプレックスを生じシラノのような悲劇が起こってしまう。その乖離を埋めるのが美容外科の一つの仕事ではないか、と僕は思う。
その乖離を可能であれば数値化したい。それが美容外科の診断学というわけだ。
幸い、装いや立ち居振る舞いなどは本人の努力でどうにでもなる。メスに走る前にまずそのような医療でない手法…化粧、ファッション、エステ、表情トレーニング、更には歩き方や身のこなしなどで自分磨きをすべきではなかろうか。
そのように捉えた時、ここで装いと立ち居振る舞いが、どの程度自分でどうにかなるものなのかを線引き出来るかという問題が発生する。先ほどの色々な手法の中でも、表情トレーニングや歩き方、身のこなしといったところは、自分の努力次第で如何様にも出来、金が掛からず自分で考えて実践していける方法である。装いの方もある程度自己の努力ということになるが、これは非常にお金が掛かる。よって、これだけは自分では譲れないというこだわりや、逆にこれだけは避けたいという消去法による整理の仕方になるのではないだろうか。
さらに他の問題は、人間は動物に比べ巨大な大脳を抱えているという事である。動物の脳は大脳旧皮質という、本能というか、生理的な機能をつかさどる部分が主体である。人間の場合はこれと異なり、大脳新皮質が巨大化して大脳旧皮質を覆ってしまっている状態である。これが自分で好き嫌いを意識し、また善悪まで判断してしまう。美もその意識の一つと言える。
そして人間の場合、これが悲劇かどうか分からないが、この大脳新皮質が生理的というか、動物的な部分と真逆の事をやってしまうことがままある。旧約聖書では、アダムがイブの勧めでリンゴを食べてしまって楽園追放となる。つまりリンゴを食べて善悪の知識を得たお陰で、判断を神に任せず自ら判断するようになってしまった。これが神を怒らせたとキリスト教では説いている。
快不快だけの問題ならエンドルフィンやドーパミンの科学物質に落とし込むことが出来る。つまり動物脳で説明可能だ。しかし、美というものは大脳新皮質が弄ぶ抽象的な概念になってしまっているので話がややこしくなってしまうのではなかろうか。
美を論ずるときにまず出てくるのが美は「主観か客観か?」という議論である。
よく美は主観的なものだから、その基準を論じても意味がないと言う人もいるが、谷崎純一郎は「文章読本」の中でこのように述べている。「よく人は、美は主観だから意味ないと言うけど、それは間違いで、自分は食いしん坊だから、食べ物に対しても8割方の人が美味しいと思うものは美味しいんだ。そういう意味で客観性がある。それがなければ、文章論を書く意味がない」。
また「悪の華」の詩人ボードレールも、美には8割の客観性があると言っている。あとの2割は主観的な部分だが、それが芸術としての特性を与えるという。
もし美の受け止め方に客観性があるとすれば、それは「先天的なものか後天的なものなのか」、これが次の課題である。
これについては米国の心理学者ジュディス・ラングロワの実験がある。
生まれたての赤ん坊に、100人の美女と100人のそうでないほうを見せると、区分けはどうしたのか別として、美しいほうをより長い時間眺めている。つまり美の判断は先天的なものが存在する。たとえ後天的な刷り込みもあるにしても。
さて美が客観的で先天的とすれば、そこに「客観的な基準」があっていいのではなかろうか。
容貌についてはまず言われるのが、平均的な顔が美しいとされることである。コンピューターで合成写真を造っていくと、数を増やすほどに美しくなるという。つまり「平均値」が美の基準のひとつに挙げられる根拠である。

次に挙げられるのが「シンメトリー」という要素。あまり歪な顔は美しいとは言えない。シンメトリーであることは大事である。しかし、完璧にシンメトリーだとそれはそれでかえっておかいしい。ミロのビーナスで左半分での合成、右半分での合成を行うと、どちらも美しいとは言えない結果となる。
つまり多少の食い違いがあったほうがい。
これは最初に客観か主観かの議論で、客観が8割、それでもやはりちょっと外れた2割が大事というところに繋がるかと思う。
さらにギリシャ時代は、「カノン」という捉え方があった。身体の一部の顔の長さとか、手掌の長さを基準とし、それを1ユニットにして身体各部を計り、それによって比率とかバランスに結びつける。
ギリシャ人の場合には、ステロスという指の中指の長さと手のひらの幅を一つの単位として色々な計測をしていたようである。
それから線も美の基準の一つになる。その一つがEラインである。
さらに、角度も一つの要素と言える、顔面角というのがあるが、75~80度がいいとされている。これが狭いと動物に近い。ギリシャの彫刻は、むしろ100度くらいである。ただこれは、あくまで白人至上主義の人類学の時のもので、今はあまり論議されないようになった。
この辺の分析は美容外科医が、顔面奇形の時、どこまでは正常で、どこまでが手術によって治した方がいいのか決める基準にはなるので、レントゲンの計測など様々な分析が進んでいる。

 

ジェロントフォビア

欧米の文化では老いは醜いものとされてきた。
デューラーはそのエッチングで、老醜をみごとに描き出している。
ジェロントというのは老。それからフォビアというのは、嫌悪である。それを結合した言葉が、ジェロントフォビア、つまり老醜嫌悪。


日本ではあまりジェロントフォビアの考えがなかったが、西洋では老人の差別化は当たり前であった。それをエイジズムと呼び、20世紀の半ばから改めようという風潮が生まれている。最近は日本の文化も変わっては来たが、日本の場合には、年をとってシワだらけになると柔和な顔になる、という言い方をして受け入れ、シワ伸ばしはとんでもないと言う向きもあった。
一つは日本人の場合、西洋人に比べて骨格が違う、つまり平面的であるということがプラスしている。西洋人の場合、彫が深いということがあだになり、そこに加齢による皮膚や脂肪の垂れが加わると、鬼婆の様相になりやすい。いま一つは日本人の場合、皮膚の結合組織がしっかりしていて厚いので、西洋人ほどシワやたるみが出来にくい。
シワ伸ばしの手術でも日本人の場合、だいたい耳の周りを切って顔の皮膚を剥がす際、ハサミで切らなくては剥がれないが、西洋人の場合は指でも剥がれていく、それほど結合組織が弱いので、垂れ易い。これで顔の老化の受け止め方の違いも生まれたのではなかろうか。

>>>『WHY?Anti-Ageing』バックナンバーはこちら

Dr.SHIOYA2 塩谷 信幸(しおや・のぶゆき)
アンチエイジングネットワーク理事長、北里大学名誉教授、
ウィメンズヘルスクリニック東京名誉院長、創傷治癒センター理事長

現在、北里研究所病院美容医学センター、医療法人社団ウェルエイジングAACクリニック銀座において診療・研究に従事しているほか、日本形成外科学会名誉会員、日本美容外科学会名誉会員として形成外科、美容外科の発展に尽力するかたわら特定非営利活動法人 アンチエイジングネットワーク理事長、日本抗加齢医学会顧問としてアンチエイジングの啓蒙活動を行っている。

【著書】
一年で一歳若返る/アンチエイジングのすすめ(幻冬舎)
美容外科の真実/メスで心は癒せるか?(講談社)
40代からの/頭と体を若返らせる/33の知恵(三笠書房)
「お若いですね」と言わせよう。(ゴルフダイジェスト)
など
ブログ『アンチエイジングブログ!』更新中

 

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